わが心のBlog

by Hiroki Utsunomiya

感性の皮下脂肪と自意識テトリス

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新陳代謝が落ちると、カラダは太る。


このことをアナロジーとして考えると、痛切だ。
年を取ればとるほど(いや、年齢しばりをよしとしないなら)、サボればさぼるほど、感性の新陳代謝も落ち、太るのではないだろうか? という問いに繋がる。 これはかなり重要だから、もう一度言う。


サボればサボるほど
感性の新陳代謝も落ち、精神は太る



今、自分に言っている。
カラダの仕組み同様、精神活動も運動しないと太るのだ。
なにを今さら? いや、でも、もっとも、いつであれ、確実に適用する問いであろう。
ほっとくとすぐに「自意識」の壁は心を閉ざしていくからだ。
脳みそはサボることが大好きで、筋トレとは脳のダマし合いである。
同様に、自意識もすぐサボる。 その自意識をだまして、精神を鍛えていくしかないのではないか。


ここにおいて、自分の負(あるいは状況)をイチイチみとめるしかない。
どれだけ、サボりまくってきたのか、ということを。
ここをゆるすでもなく、断罪するでもなく、認めないと話は進まない。
身体は正直で、動かないと太るように、自分の感性の皮下脂肪も同時に正直なのだから。

具体的にどういうことかというと、批判への耐性である。
自意識を肥え太らせると、批判に耐えられない。批判と批難を混同するようにもなる。

批判:良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること

 

この良し悪しの仕分けに耐えるにはそれこそアスリートのような強靱な精神性、アタマの機転、仕分けを認める頭脳・あるいは認めない・を認める頭脳、自分の納得力が必要だからだ。とうぜん経験や年次、プライドも邪魔してくるだろう。だが、そうして精神活動をサボりまくると、いつのまにか「負けない奴」ができあがる。

さらにこれが進むと、自分が「負けない奴」であることにすら気付けなくなる。本当の意味での批判(良し悪しをはっきり見分け、評価・判定すること)からの気づきと成長は遠い、とおーい、桃源郷のファンタジーになってしまうだろう。
ただでさえ、自分を高く算段する愚かさと虚栄心を、人は持っているのだ。
で、たいてい「手グセ」の世界に戻るのだろう。傍からみると「アホか」って思うような、手グセの世界に。


手グセに戻るのはなぜか?———


コワイからだよ。それだけ自意識から離れるのが怖いのだ
でも、だからなんなんだよ?
その怖さと仲良く付き合うしかないだろうに


自意識の壁は高く、そして深く、横へとつづく。
ほっとくと積み上がる自意識テトリスを解消していく、という行為。意識。心掛け。
これは前頭葉がオーバーヒートする、冷静にして神聖な活動に思う。

で、つきつめていくと、オレという、この連続性も疑え! ということにもなるのだろう。
それにそもそも「何に対して」成長や気づこうとしているのか? というパラダイム問題にもなる。

つーか、だいたい「気づき」って言葉が気に入らない。流行ってんのが余計気に入らない。
なんだよ、じゃあ気づいたらどうすんだよ?(自分で言っておいてつっこむわ。笑)
いくら気づきの落ち葉をかき集めても、風が来たらすぐに飛んでしまうだろう。
そうして枯れ木にセロテープで貼るのさ、落ち葉を。

はたして、ゲームチェンジは必要なのか? いったいなにを競争しているのか?
この世界っていったいなんだ? 自分は何がほしいんだ?
ってひとつひとつ解析して納得することでしかないし、これらの問いを直感的にオレはただしいと思っている、と、言うほかない。だからこうして書くわけだ。
が、これはあなたにも書いていることだ。安心しないでほしい。特に俳優のあなたに書いてるんだぜ?
そして最終的なドアの前には三つの看板があり、こう書かれているだろう。







「で、お前は変わる気があるのか?」








「いや、気だけでなく、変わるか?」








「ふふふ、お前は耐えきれず、戻るだろうよ。それも覚悟の上か?」